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幕末・維新期 筑前今津璞干拓の世界
附・柑子岳城編年史料

木下 壽一(著/文 他)

発売: 花乱社

A5変型判  208ページ 並製
価格 2,750円 (消費税 250円)
ISBN978-4-911429-07-5 C0021
在庫あり

書店発売日 2025年06月06日
登録日 2025年05月23日

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紹介

福岡市西区今津は、安政6年(1859)瑞梅寺川河口の干潟に
長さ六百間余の潮留堤防が築造され現在の地形となった。
明治2年(1869)福岡藩が柳瀬(志摩野)司を新開奉行とし、
未開発のまま放置されていたこの地の耕地整理を再開するが、
明治3年、僅か数カ月の間に四百余の犠牲者を出す大惨事が起こる──。
忘れられた今津干拓の歴史を、史料をもとに丹念に辿る。

目次

筑前今津干拓史の世界──その回顧 
第一章 安政六年、潮留堤防の竣功
第二章 堤防補強整備のため御用金提出──文久二・元治元年
第三章 明治二年、耕地整理再開 犠牲者が多数発生
第四章 志摩野(柳瀬)司と筑前竹槍一揆
第五章 明治初期の新田
捕章 志摩野司考
資料編/結び
柑子岳城編年史料

前書きなど

「筑前今津干拓史の世界─その回顧」より

 福岡県福岡市西区今津は、瑞梅寺川河口に位置している。面積は六九三・一町。宝暦九年(一七五九)、河口入海最奥部の字潟から対岸の字堂崎(小学校前)間に「新潟堤防」が築造されたことにより、最初の地形の変化をみる。くだって百年後の安政六年(一八五九)、その南東の干潟に璞堤防(字下ノ割~字城を繋ぐ六〇〇間)が築造され、現在の地形と面積数値を確立した。(略)
 本書でテーマとするのは、右に述べた安政六年の璞堤防築造によって内湾と遮断された「璞・新開地区」のその後である。璞堤防築造後も引き続き資金の調達が行われ、耕地整理は若干の進展をみた。明治二年(一八六九)、福岡藩は未開発のまま放置されていた荒地を窮民救済事業によって新田にするため、藩内に広く従事者を募って九月より耕地整理を再開したが、労働災害によって僅か数カ月の間に四〇一人の犠牲者を出す惨事となって事業は頓挫した。(略)

 筆者は昭和六十二年(一九八七)、糸島市(旧前原市)在住の元教師・近世史研究家の故・由比章祐先生から郷土史の勉強会におさそいを受けた。平成十年(一九九八)、先生から冨永計久家所蔵の「安政六年己未日記」に今津潟干拓についての記述があるとご示教を得た。こうした幸運な巡りあわせと自身が幼年期より家庭内で語り聞いた記憶が動機づけとなり、明確な意識をもって今津潟干拓史の調査・研究を開始した。当然のことながら歳月の経過を受けて語り伝え継ぐ住民も少なくなり、歴史災害の風化は確実に進んでいることを実感する。
 本稿では安政六年(一八五九)の堤防築造から明治三年(一八七〇)に発生した労働災害をはさみ、明治末期の耕地整理計画と竣功までの概要を述べる。また、明治二年(一八六九)の耕地整理再開の時に新開奉行に就任した柳瀬司の生涯の光と影を考察する。最後に、昭和三十三年(一九五八)執行「璞新開百年祭記録」および同六十年(一九八五)に建立された供養塔前での第九回「慰霊祭祭文(詞)」を紹介する。文書史料・遺構等の写真をできるかぎり掲げ、調査・研究の結果を率直に披露することを意図した。

著者プロフィール

木下 壽一(キノシタ ジュイチ)
1943年、福岡市生まれ。[論文]「筑前志摩郡における臼杵氏について」『福岡県地域史研究』6号、西日本文化協会、1987年/「筑前天寧寺と臼杵氏」『臼杵史談』85号、1994年/「幕末維新の今津干拓」『福岡県地域史研究』15号、西日本文化協会、1997年/「筑前志摩郡の山茶花塚について」『臼杵史談』96号、2006年[冊子]「今津の地名」2018~2022年

上記内容は本書刊行時のものです。

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