2023年8月27日
石風社 代表・福元満治
私は、石風社のことを会社だと思ったことがない。1981年の創業以来法人化しようと考えたこともなかった。一人からはじめて今でもスタッフとあわせて三人と小規模でもあり、個人事務所の形態のまま42年が過ぎた。事務所は、福岡市赤坂の木造モルタルの2階でスタートし、大名、大手門のビルに移転した。大手門のビルが不良債権で競売のあげくヤバイ筋に買い取られたので移転せざるを得ず、現在の渡辺通2丁目が21年目になる。
まあ出版社が事務所だろうと企業だろうと、読者にとっては関係ないことで、書籍は作品として自立しておればそれでいいわけだ。
書籍というのは、まず作品としてあるのだが、商品としては不思議な存在である。流通の面で見ると、北海道であろうと、沖縄であろうと同じ定価で販売できるし、書店への出荷は、1冊であろうと100冊であろうと仕入れ値の歩合は、基本的に同じである(委託の場合返品も可能)。再販売価格維持制度(再販制)という、独占禁止法の例外規定に守られてもおり、市場経済の原理に照らしてみると、奇妙である。通常資本主義下における商品としては、値引きなしの定価販売というのはあり得ないことである。何を言いたいのかというと、出版社の人間のメンタリティは、おおむね商売人としての駆け引きの埒外にあるということである。書籍の取引が、純粋の市場原理のもとで行われていたら、私を含めた多くの小出版人は、本を作ること以上に「商取引」に振り回され、早々に市場から退場していたのではなかろうか(再販制のない米国では、大型チェーン店の大幅値引き攻勢で、多くの独立系の書店が潰れたり殿戦を戦っている)。
こんなことを書くのは、私のような計算のできない丼勘定の出版人が、なぜ40年以上出版活動を継続できたのかと考えたとき、それは出版という商いの非資本主義的特殊性に拠るところにもあったのだ、と思い当たったからである(もちろん資本主義的な商取引にせよと言っているのではない)。このことは記しておいてもいいことだと思う。
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どこかに書きとめておきたいと思っていたことがある。
2022年7月8日の事件のことである。あの時様々のことを識者が述べたが、ひとつとしてピンとくるものがなかった。そういう中で、あの頃唯一腑に落ちたのがエリック・ホッファーの箴言集『魂の錬金術』(中本義彦訳 作品社)の言葉であった。その文章の一部(箴言の29)を書き記す。
「自尊心に支えられているときにだけ、個人は精神の均衡を保ちうる。自尊心の保持は、個人のあらゆる力と内面の資源を必要とする不断の作業である。われわれは、日々新たに自らの価値を証明し、自己の存在を理由づけねばならない。何らかの理由で自尊心が得られない時、自律的な人間は爆発性の高い存在になる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す。社会動乱や大変動の根底には、つねに個人の自尊心の危機が存在する。」
ホッファーは、ここでプライドと自尊心の違いを述べているわけだが、あのヤマガミ君は、その家庭環境の中で「自尊心」を築くことができず、その爆発性代替物である「プライド」を暴発させたことにならないだろうか。ホッファーは、おなじ箴言の中で次のようにも述べている。
「自己実現できず、自己の存在を理由づけることもできない場合、自律的な人間は欲求不満の温床となり、世界を根底から揺るがす大動乱の種子となる」
私はこれを読んで、自尊心とは自分への信頼であり、プライドとは、自分に対する不信ではないかと思った。世界を見ると、〈ジョーカー〉から政治指導者まで「プライド」ばかりに固執する「動乱の種子」に満ちているように思える。ただし、その爆発や動乱が齎(もたら)す結果についての評価は、また別の問題である。ちなみに自律的人間とは、自立的人間と同義ではない。むしろその対極にある人間のことのようである。
自尊心を保つことと自立的人間であることは容易なことではないが、ホッファーの言葉は、肚のどこかに留めておく必要があるように思う。
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先日、久しぶりに熊本に行った。10年ぶりの同窓会である。
私は、小学校から大学までの同窓会というものに出たことがない。ところが、大学時代のヨット部の集まりにだけは、欠かさず出ている。大学そのものは中退しているのに、部活の集まりにだけ出席するのは妙なものだが、理由は活動の3年間のなかで培われた人間関係で、ひとりの生涯の友を得たことにある。ただ、その友人も3年前に逝ってしまった。
会合の始まる前に、少しばかり時間があったので、練兵町にある橙書店に寄ったのである。福岡も暑かったが、熊本は蒸し暑い36度で、街は肥後なんとかというお祭りでごった返していた。そのせいか橙書店には客がだれもおらずひっそりとしていた。
店主の田尻さんは、「お祭りなんで誰も来ませんね」と言い、私は冷たいカフェオレを飲み、雑談のあと腰をあげようとしていた。すると、
「最近目の不自由なお客様が、時々いらっしゃるんですよ」と田尻さんが言った。
彼女が、不思議に思っていると、
「目が見えないのに、どうするんだろうと思っているでしょう」
とその男性は、見透かすように言い、本は朗読されたものを聴いていて、橙書店の(音声化された)ブックレビューは、ほとんど暗記しているとのことだった。
つづけて彼は言ったという。
「『サハラの歳月』は3回読みました。著者のサンマウが自死したことを知って、恋人をなくしたような気がしました」
私は、ハッとしたが、
「恋人をなくしたような気がした、と言われたんです」と、田尻さんは繰り返した。
『サハラの歳月』(三毛著 妹尾加代訳)は、3年前に小社が出版した本である。
サンマウ(三毛)は台湾の女性作家で、少女期に教師から理不尽ないじめにあい、不登校の末に独学でアメリカやスペインに留学している。学校教育にはなじめないが、繊細で文学的に資質豊かな少女で、一度目を通した文章は忘れないという一種の高知能のアスペルガーである。その彼女に恋した年下のスペイン人ホセとの西サハラでの波乱にとんだ生活記が、『サハラの歳月』である。
なかでも胸に響く作品が、「聾唖の奴隷」、「サバ軍曹」、「哀哭のラクダ」の三篇で、究極の場での人間の純粋と自由が描かれている。その作品のひとつについて、田尻さんは最近上梓した書評集の中で、次のように記している。
「印象的な登場人物のひとりに「聾唖の奴隷」がいる。もの言えぬ彼は、自分の胸を指さし、次に小鳥を指さし、それから飛ぶ動作をする。「私の体は自由ではない。だが心は自由だ」と言っていたのだ」(『これはわたしの物語』西日本新聞社)
『サハラの歳月』の後に、小社ではサンマウの自伝的作品集『三つの名を持つ少女 その孤独と愛の記憶』(三毛著 間ふさ子・妹尾加代訳)を出版した。これは、サンマウの孤独な少女期を一つの柱に、海難事故で亡くなったホセへの愛の想い出を、日本独自に編集した自伝的散文集である。
その盲目の男性は、『三つの名を持つ少女』についてはご存じなかったので、田尻さんがその方に伝えてくださったとのことである。
それを聞いて、私は久しぶりに読者の存在を感じることができた。
私は、田尻さんにお礼を述べ、
「書店には、物語があるんですね」
と言って、橙書店を出た。
(2023年8月)